長谷川きよし
大人の音楽館 No.4
(2001年1月)


寄りかからない清々しさ。張りつめたギターの音色と森を抜けるような声

まっすぐに歌う。孤独も別れの切なさも、なにかに寄りかからず、あるがままにまっすぐに歌う。長谷川きよしは、向かい風を受けながらも顔をそむけないような歌いっぷりを見せる。ギターの弦の張りつめた音にあわせて、鞭のようにしなやかで、森を突き抜けるほどの声をもって。

彼の初期の作品に「バイレロ」という歌がある。当時の一連の名曲づくりの相方となった津島玲の詩だが、その象徴的な一節、「忘れないようになさい、苦しい思い出でも」という逆説的な言葉をも、力強く声にするときに長谷川らしさが光る。

もうひとつ、93年のアルバム「アコンテッシ」のなかにあるタイトル曲「アコンテッシ」を歌う長谷川のスタイルだ。ブラジルのいぶし銀のサンバの歌い手カルトーラが、愛せなくなることの仕方なさを諦観を込めて歌ったこの曲を、ストレートに表現する。

悲しくても、仕方なくても、そのまま歌うしかないではないか。妙な同情や思い入れがなんになるだろう、とばかりに。そこに清々しさがある。

1969年に大ヒットとなった「別れのサンバ」をつくったとき、世の中では人の心を和ませるようなフォークソングが流行っていた。しかし、長谷川は「僕は人の心に嵐を巻き起こすような歌、人の気持ちに変化を与えるような歌を歌いたかった」と言う。

時代の風潮や流れにおもねることなく、あくまで自分がよしとするものを求める姿勢がある。それはデビューから三十余年を経ても変わらない。

49年に生まれ、2歳半で失明。「将来仕事に就くといったらマッサージかハリを覚えるか、盲学校の先生になるくらいしかないように思えた。どうせないなら好きなことで生きていこうと。目が見えていたら普通の学生になっていたかも」

12歳でクラシックギターを始め、18歳の時に石井好子事務所主催のシャンソンコンクールで入賞。これを機にシンガー・ソングライターとしての道に入る。フォークソングが流行り、歌謡曲がまだ力をもち、しばらくするとニューミュージックが登場するころ、長谷川はどの色にも染まらない独自の音楽路線を歩んでいく。

渡辺貞夫などジャズミュージシャンと共演したり、野坂昭如も歌う「黒の舟歌」をつくる。加藤登紀子と南米のフォルクローレを「灰色の瞳」としてデュエットする。

77年にはサンバのセッショングループを主宰。オリジナルに絡めてシャンソン、ラテン、ブルースと長谷川の歌とギターは形を変える。が、すべてを通してそこには一つのスタイルがある。楽曲に丁寧に言葉を乗せて情念をきっちりと織り上げるところだ。

近年、長谷川はスティングの名曲「フラジャイル」を日本語で歌っている。暴力の非道さと人の存在の脆さをテーマにしたこの曲を怒りにも似た情感を込めて絶唱する。暴力について考えるべきことの多い昨今、これがCD化されていないのが実に惜しい。

2月2日には山梨県身延町で俳優の常田富士男の語りで別役実の童話集をテーマに一風変わったライブを行う。

川井龍介
サンデー毎日
2001年1月
毎日新聞社刊