闇の中にゆれ動く若者・長谷川きよし (1969年11月) 「魂のフォーク・シンガー」などと、どえらい肩書きを背負った20歳の若い歌手、長谷川きよし。彼は古びたアパートの部屋で頭を垂れてレコードを聞いたり、九十九里の潮の動きに合わせてメロでィーを拾ったり、明るく笑い、夢を語るごく普通の青年だ。恥と痛みからふき出すソウルは、魂なんていうめめしい言葉に置きかえられるものではないが、彼も自分の"うた"の行方にある予感を抱いている。 「かれは青いフォルテッシモを歌う」と ある女性が言った 女にみせたブルーのイメージはあるいは彼のいちばん脆弱な部分であろうか・・・ 憐れみという名の邪悪さ 一人の歌い手が紹介されていた。 「・・・・・・昭和二十四年七月十三日東京に生れ、二歳で失明、数回の手術もむなしく色も形もわからないまでになってしまいました。 音楽は子供のころから大好きで小学校六年生のころからクラシックギターを三年半ほど習い、ラジオでシャンソン番組をいつも聞いていました。 たまたま高校の時、クラブ活動の先生がシャンソンが好きでその恩師の影響もあって シャンソンを歌うようになりました。 四十二年の七月には石井音楽事務所主催のシャンソン・コンクールに入賞し一躍注目をあびその後テレビやラジオにも数多く出演・・・・・・」 こんなあなた好みのコメントに、ひたすら耐えているふん囲気をただよわせながら、その"音楽界にセンセーショナルな話題をなげる盲目の天才ソウルフォーク・シンガー "なる若者が、マイクの前に立っている。 マイクを通しても聞きとれないくらいの小さな声で、「長谷川きよしです。ぼくの歌を聞いてください」とだけ言って、自分でつくったいくつかの歌を歌う。 「"別れ"のサンバ」「"ひとりぼっち"の歌」「"孤独"の炎」「冷たい夜に"一人"」「"うつろな"秋に」などなど。 彼の弾き語りを見つめるのは女たちだ。小さなステージのある喫茶店では、いくらかまじっている男の客が照れくさげに目を伏せた。 夜のスナックバーでは、それまでジュークボックスにかじりついていた男たちが、彼の歌がはじまるために、電源を切られて不満気であり、酔った男は隣の女が、マイク に向った若者に視線をすいつけられるのを不思議そうに見た。 女は、悲しい生い立ちの記とさびしい歌詞には弱いらしい。 "きっと私を強く抱く時も あなたは独り淋しかったのね あなたの愛した この髪さえ 今は泣いてる 今は泣いてる 今は泣いてる" "遠い町の灯りが またひとつ消えていく さびしくはない かなしくはない 冷たい夜に ひとりぼっち ひとりぼっち ひとりぼっち" 喫茶店のハイミスらしいウエートレスもそうだった。テレビ局の朝のモーニングショーにはせ参じた中年の女たちもそうだった。みな長谷川"くん"の"歌"に心をうたれ たわけだ。レギュラー出演の決ったある番組は、その決定の大きな要素に彼が歌って引きあげるとき、オバさまたちから大きな拍手が起ったことがあるという。そんなことは、ふつうはないのだそうだ。 彼はいつもうつむいて歌う。 その形が、とってもいい、とある人はいうが、彼はうつむくということが、見る人に何を思わせるか、知らない。だから人が、彼のそれに何を感じたとしても、ひとりよ がりであり、彼にとっては、はた迷惑なはなしなのだ。 彼を見るときに限らず、女のこういうときのまなざしは、邪悪に思えてしかたがない。感動は簡単に憐憫に変り、そして嗜虐的な快感に転化する。ある所で彼が歌いおわり、お母さんに手をとられてマイクの前を離れて歩きだした時に、一人の女が満足気に浮べた笑いには慄然とさせるものがあった。 <遠白く吠える"ふしあはせ"の犬のかげだ>とは 僕の好きな朔太郎の一説・・・と小さく笑う 自分の音をみつける足跡 彼が初冬の海で拾った歌は「ひきしお」のイメージにだぶった ギターは 手近にあったから 選んだだけだ 指がいうことをきかない いらだちもあった 「くずれ」を力として 彼の負った肉体的なハンディが、あまりにも言われすぎる。 ある高校生向け雑誌は、かつてこんな記事をのせた。 「ひょっとして・・・・・・彼に疑惑の念がもちあがる。自分が盲目であることが、評価にプラスされているのではないだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。盲目を売り物にする、そんな卑怯なことは絶対したくない・・・・・・」 しかし、気にする必要はないはずだ。人間は慣れやすいものだ。彼が女たちのそういう視線をあびなくなったとき、歌だけが残っていればいいのだから。 それまでは、利用できるものは貪欲に利用しつくせばよい。 そうしなければ生きてゆけない世界らしい、しょせん。いなおればよいわけである。 彼は嫌いなことは、コマーシャリズムだともいうが、それを知ってか知らずか、ある大レコード会社のディレクターは言ってのけた。 「たしかにいい歌だと思う。だけど、彼が生きのびてゆけるほど、この世界は甘くないよ」 この甘くないという世界で生きてゆけるかどうかはともかく彼のメロディーと、リズムと声のもつ響きは抜きんでるものを持っている。 彼の音はマイナーコードが多い、そして激しくゆれる。むしろ不安定といってよい。 そして終りはいつもメランコリックに消え入る。これは彼の中に戦慄と、愛に飢えた孤独の旋律によってでてくるのかもしれぬ。 主体的な悩み、そして彼をとりまくさまざまな現実へのいらだち。これらがリズムとなり、メロディーになる。 リズムとはそうした現実と人間が噛み合うための条件であり、メロディーとは、ある選ばれた音からはじめられて再びそこに戻るまでの疼きの過程という古典的な公理が正しいのならば、彼が最初のオリジナル曲「別れのサンバ」で、ボサノバの渡辺貞夫のもとにありながら、ボサノバは好きじゃないと言い、ホットなるがゆえにサンバを選んだというのは、一面首肯しうるわけである。 彼は、どっちかというとホットだという。人はボクをクールにみるがそうじゃない、といいはる。だからこれから作りたい歌は、内へ向ってうたいこむものもいいが、もっと激しいものにひかれるという。ハードロックなどのもつバイタリティーと、その裏のニューロマンチシズムに魅せられてだろうか、トランペットの日野皓正を話題にしたとき、実にうれしそうな顔をした。テクニック、音質、音域、フィーリング、細い体にあふれるリズム感、そしてかっこいいハッタリ性が、日野に対する一つの評価らしいが、共通項がないでもない。 映像の暴力性、言語のもつ暴力性を認識することなしに、現代性は一切不可解になってしまうが、長谷川きよしが歌うとき、さまざまの表現行為のもつ暴力性が当然そこにもあるのではないか、と言った人がいた。 当否は別にしても、そういう感じを聞くものに与える要素は彼の詩の言葉では、おそらくない。彼の詩の言葉は意外に古く甘い。極言すれば幼い。 聞く人の中に入りこんでくる力は旋律とリズムのくずれみたいなものにある。正統的なフォークソングでも、シャンソンでも、バラードでもないところだ。 だから、彼のオリジナルの歌でも一部はごくあたりまえで、哀感に頼っているだけのものもある。 しかし「別れのサンバ」や「心のままに」などの転調の多い新奇な旋律は、怠惰な耳に押しいってゆく。 彼はこれだけは聞いてほしいと リサイタルの テープからベコーの「光の中へ」を選び出した 地下喫茶から手すりを伝ってあがった先は 人間の雑踏 彼はその中で 何かに飢えた"ふしあわせな犬"だ 彼の歌にはホットなうちにさめた冷たさがあるのに 彼が出番を待つクールな態度の うちから 激しく いらだつ衝動が噴きでている 自分を裏切る歌を メロディーがくずれるとか、リズムがくずれるとかはある時点では問題ではなくなるのかもしれない。「うた」は音楽ではないし詩でもない。両方がふしぎなしかたでいっしょになっている、ぜんぜん別のジャンルのものが生れつつあると、詩人の片桐ユズルは、かつてフォークソングを評したが、高石友也などはともかく、長谷川きよしの歌には、そんな感じはある。 だからと言って、片桐はフォークの歌詞が詩である必要がないといっているわけではない。高石の歌は、メロディーをきかすより、ことばひとつひとつを、ゴツゴツと聞き手の前においてゆくみたい、と肯定的に評したことがあった。 長谷川きよしも詩をつくる。それにメロディーをつける場合、逆にメロディーを拾ってきてから詩を考えることもある。 彼は朔太郎が好きだという。『月に吠える』の中の「見知らぬ犬」あるいは『氷島』の「漂泊者の歌」をまずあげる。 彼が朔太郎のどこにひかれているか定かではない。しかし彼が自分の言葉に朔太郎の言葉のもつ響きを重ね合わしているのは間違いない。 ただ、彼は朔太郎のもつ、悩ましげな、生理的な、それでいて形而上学を夢想するような言葉には気づいていないようだ。 朔太郎のもった孤独は、愛に飢えたそれではない。奇妙な言いかたをすれば、男の性の苦悩を伝えている。詩人・清岡卓行がかつて「情欲に濡れた虚無」と呼んだものだ。 長谷川きよしの歌は、愛を求めるラブソングだが、そこに男の臭気は、まだない。彼がもちえている世界から、母たちの目を追出すことが課題だ。そうでなければ、彼自身にとって、歌うという行為は、しょせん自慰的なもので終ってしまうだろう。彼もある予感は持っている。 「いまは、歌っているのは自分だが、いずれ自分で歌いながら、自分を裏切ってゆく歌を歌うことになるかもしれない」 FOLK SINGER HASEGAWA Described as the "folk singer for the soul," Kiyoshi Hasegawa is busy working for television and radio. Born in Tokyo in 1949, he lost his sight at 3; began playing a guitar at 13. He won a prize in a chanson singing contest years ago. He wrote songs such as "Samba for Departure" and "Flames of Solitude." 森 記者 アサヒグラフ 昭和四十四年十二月十二日号 朝日新聞社発行 |